暑かった夏がひと段落・・・してくれるといいな (;Α´∀`)
京都の勉強会に参加していますが
他の皆さんが当たり前のようにご存じだった天寧寺
フフフ 行ったことがなかった
お友達のTさんとNさんをお誘いして・・・ ε=ε=ε=((((o^ー^)o ブ-ン!!
★ 有名なのは「額縁門」
山門を額縁に見立てて その中に奇麗に比叡山が収まります
松の剪定をしておられました
ここは寺町通
秀吉がたくさんのお寺をこの通りに集中させたので
通りにお寺がずらりと並んでいますがこんな風に奇麗に見えるのは天寧寺だけよ♪♪
このころの大事件といえば 信長が起こした比叡山延暦寺の焼き討ちです
お寺を焼き討ちにするなんて‼
とも思いますがその頃の比叡山は山法師と言って僧ではあっても武装した僧兵で
武士と拮抗する大勢力だったとか
信長ファンなので、ついつい弁解してしまいます (;Α´∀`)
長い間 曹洞宗のお寺は京都にはなかったので 全体としても少ないのかもしれません
天寧寺は天明の大火で堂宇が焼けてしまいその後の再建です
その時に もう争いをしたくないという気持ちで 比叡山が見えるように 本堂を門の正面にせず控えたのかもしれません
本当はどうなんでしょうね ?(゜_。)? たまたま ?(゜_。)?
★ 金森宗和 山門手前に石碑があります
境内の奥に金森宗和とその母親のお墓もあるそうです
非公開寺院なのでその場所には入れませんでした
金森宗和といえば江戸時代前期の茶人ですが
私が知っているのは 金閣寺にある茶席 夕佳亭を作ったことしかわからない^^;
夕佳亭は後水尾天皇に金閣寺に来ていただこうと作ったお茶室らしい
★ 松陰坊遺跡 山門手前の右側にも石碑があります
だから そのあとに建った天寧寺は延暦寺が見えるようにしたのかな
この石碑の前には手入れをされた立派な松がありました
松陰坊遺跡は大切な所なんでしょう
(金森宗和の写真の右端に ちょっとだけ松が写ってます)
山門をくぐって中に入ると 中央に石塔が・・・
★ 明智光秀報恩塔
平成10年から始まった修復工事で 本堂の天井裏から驚くようなものが発見されました
なんと明智光秀の位牌です w|;゚ロ゚|w
光秀は比叡山の焼き打ちに加わりましたがその後の処理を任され
麓の坂本に領地を与えられて城を構えました
そういった過程で延暦寺と光秀の間に深い関係ができ
松陰坊の時代から 天寧寺と寺が変わっても数百年の間
密かに光秀の位牌を供養し続けてきたようです
光秀っていうと その時代は犯罪者っぽく扱われてると思うし
隠れて供養するしかなかったのかな.+(〃ノωノ)゚.+°
ひょっとしたら ここにも観光客が押し寄せるかも ( ◎´艸`)
「明智光秀報恩塔」は山門を奥に入っていった真正面です
★ 菊水の紋
京都に移る前の会津若松にあった天寧寺を創建したのは傑堂能勝和尚といって
楠木正成の息子です
だから お寺のあちらこちらに 菊水の紋が見られました
神戸っ子の私には 懐かしく 菊水を見るだけで意味もなくホッとします
建物が御所の建物を移築しているらしいけれど
詳しくはわからず・・・ ・゚・(ノД`;)・゚・
後ろの大きなカヤの木には 落雷や天明の大火の焼け跡が残っているらしいのですが、この位置から向こうには入ることができないので見えません
今から300年以上も前のやけどやん 見たい!! 残念 。・゚(゚⊃ω⊂゚)゚・。
★ 諫鼓鶏の灯籠
昔、唐堯の時代に天下がよく治まり
訴訟用の太鼓(諫鼓)も用がなく苔が生え鶏が宿ったという故事があります
良い政治や平和の象徴のように使われている諫鼓鶏の灯籠を作るって
良い政治を願う・・・今は良くないの?と思ってしまう天邪鬼
延暦寺の焼き討ちはもうするなよ ということかしら
出雲路橋から川上を見渡すと 深呼吸したくなりました
あんなことやこんなことを思いながら
Japaneseまぜ麺 MARUTAで舌鼓をうちました
ご一緒してくださったNさん Tさん ありがとうございます 楽しかったね~
また遊んでくださいね ヾ(´Д`)ノ☆