お友達から 二尊院に行きませんか?
行く行く ぜひ連れて行ってくださ~い *1わくわく
ようやく慣れてきた嵐山
待ち合わせは清凉寺のバス停です
二尊院には前々から 一度は行ってみたいと思っていたのです
二尊院って 誰と誰? 覚えにくいわ~と思っていたので
この機会に覚えたいな (((o(´∀`)o)))
バスで 覚えるべき文字がありました 。゚ヽ(゚´Д`)ノ゚。
あと 糺の森 うっかりしそうです
さあ 嵯峨嵐山の待ち合わせ場所に着きました Nさんよろしくね ♪d(´▽`)b♪
6月だったので アジサイが奇麗でした
小倉山 二尊院 総門を前にするだけでも 引き締まりますね~
正式には「小倉山二尊教院華臺寺(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)」といいます
承和年間(八三四〜八四八)嵯峨天皇の勅願により第三代天台座主 慈覚大師(円仁)が建立しました
総門は 伏見城にあった「薬医門」を角倉了以によって移築・寄進されました
モミジの時には さぞかし・・・と思える景色です
そして広くって清々しい ヾ(´Д`)ノ☆
小倉山♪♪ というのは京都を表す 枕詞ですが やっぱりあります 歌の石碑が
わ~い 本堂が見えましたよ あの中に二尊がいらっしゃるんだ *2わくわく
後奈良天皇ってよく知らなかったので ググってみたんです
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後奈良天皇は 後柏原天皇の崩御にともない践祚した。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、10年後の天文5年2月26日(1535年3月29日)にようやく紫宸殿にて即位式を行う事ができた。
後奈良天皇は、宸筆(天子の直筆)の書を売って収入の足しにしていた。
だが、清廉な人柄であったらしく、天文4年(1535年)に一条房冬を左近衛大将に任命した際に秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していた事を知って、献金を突き返した。
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え~ 天皇なのにお金がなかったんだ あれ? こういう話 聞いたことあるな!?
と思って もう一度ググりました 当たり ピンポン♪♪
川端道喜が16世紀初頭に創業なので応仁の乱の後です
そして 毎朝「御朝物」と呼ばれる餅を献上し始めたのが 多分 後柏原天皇かも。
応仁の乱後、皇室の経済力は著しく低下し、皇室の支援をすべき室町幕府も弱体化して
天皇の食事の確保もままならない状況だったのです (;Α´∀`)
川端道喜は 明治になって天皇が東京に行ってしまうまで、毎日ずっと御朝物を
お届けしていたって それも驚きですよね
ということは、この勅額もお金のために書いたものなのかしら (・'v`・)??
いえいえ、駒札に 深く帰依し って書いてあるよ
ジャーン ヽ(。´Д`。)ノ ご本尊です 写真を写してもOKと許可を頂きました
左右対称にするために 阿弥陀如来の手が左右反対になっています
二尊院のサイトの説明は、極楽往生を目指す人を此岸から送る「発遺の釈迦」と、
彼岸へと迎える「来迎の弥陀」の遺迎二尊です
釈迦が衆生に浄土往生をすすめ(発遣はっけん)、阿弥陀仏が衆生を浄土へ来れと招きよぶこと(招喚しょうかん) と記されています
左手は かなえてあげるよ~の「与願印」なので
極楽に送って行ってあげるよってことかしら
阿弥陀如来は 単なる来迎印なのかしら・・・
下げた右手の指を5本とも真っ直ぐ伸ばしている点が珍しいらしい !!w(゚o゚*)w
極楽浄土を約束してくれている仏様なので 向こうで待ってくれているのかしら・・・
でも立っているから 迎えに来てくれたのかな?
阿弥陀如来の印相が下品下生だったら
ハスの葉っぱだけが迎えに来てくれて 自分でハスに乗っかって
一人で極楽浄土に行くんだけれど(バチあたりですがこれを想像すると笑えます)
それでも良いから、私も極楽に行きたいな~ なんて思いながら・・・
手の形って 面白いね o(*^▽^*)o
『二尊院縁起』によれば、法然が湯上がりに一方の足を出して休息していたとき、詫摩法眼たくまほうげんが簾すだれごしにその姿を写し、のち九条兼実はこの像をかけ開眼供養を法然に申し出たところ、この足を出した姿を見て、「これは狼藉ろうぜきのすがたなり」と法然が祈念すると、たちまち御影の足は引き込まれたという
ヾ(仰゚Д゚)ノスゴッ!!!
右膝の前に唐草文様の風呂敷包みが描かれています
この風呂敷包みは旅支度を示すもので、また沈んだような顔の表情から
流罪直前の姿だとの説があります 絵一つで色々とわかるものですね(゚д゚)(。_。)ウン!
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★建永の法難(承元の法難)・・・ これは二尊院ではなく 安楽寺のお話です
松虫鈴虫という美しい姉妹は後鳥羽上皇の小御所の女房でした
そのころ安楽寺に、法然上人の弟子で(噂ではイケメンだと評判の)住蓮と安楽という僧がいました。ある日のこと、後鳥羽上皇が御所を留守にしていた間に、溺愛していた松虫と鈴虫が出家し尼僧となってしまったのです。
後鳥羽上皇は憤怒し、建永2年2月、専修念仏の停止を決定。
住蓮房・安楽房に死罪を言い渡し、その他の2名も死罪に処される。
それでも怒りの治まらない上皇は、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪にした。
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このほかにも
宝物はたくさんたくさんありました
くるりと振り向くと お庭があります
勅使門も奇麗ね~ 人もまったくいないし 清々しさでいっぱいです
こんな景色を二人占め~~~ ヽ(。´Д`。)ノ
お堂の裏側が 山裾と一体になってつながっています
百人一首で有名な藤原定家の小倉山荘も このお山にあるんですね
ヾ(´Д`)ノ☆
後水尾天皇はいろいろなことろに足跡を残されていますね (σ≧∀≦)σ
御園亭でお茶などいただいてみたいですが、特別拝観の時だけですって
残念 。゚(゚^Д^゚)゚。
お庭があまりに美しいことと、私たちの聞きたがりが治まらないのと
お寺も観光客が全く来なくて暇なので
このお庭の前で 1時間ほどお坊様となんやかんやとお話ししていました
(人´∀`*).。:*+゜
そこで さっき何となく違和感があった南庭のことを お尋ねしてみました
どうして桜をこっちにしたんですか? 桜と橘って・・・
御所でも左近の桜 右近の橘で桜は東側って決まっていないの???
「そんなことは何も考えずに、庭木として桜と橘を植えたんです」って 。゚(゚^Д^゚)゚。
外に出てからパチリッ
これが 東側に植えられている橘です ( ◎´艸`)
★湛空廟
二尊院で教えを広めた僧、湛空上人の碑を収めています。
建長五年(1253)に中国の石工によって彫られた碑と思われ、
碑堂は室町時代末期の建築として京都市指定文化財になっています。
小倉山の中腹にあたり、景色もよく、澄んだ空気を味わえます。
★時雨亭跡
この石が時雨亭の礎石ですって ┗|*`0´*|┛
この他、お山の上に三帝陵もありました
土御門帝、後嵯峨帝、亀山帝
これからの日本は任せておいて!! 安心して安らかにお眠りください
(という気持ちだけはあります)
そうそう 小倉山って 百人一首だけじゃなくって アンコも発祥やった
小倉餡発祥の地の碑
Nさんと おなか減ったね~ Ψ(`∀´)Ψ
★嵯峨のたまご屋さん
これが美味しいのよ Ψ(`∀´)Ψ 嵯峨に来たらこれ!! たまごかけごはん♪♪
もちろん プリンもね
食べちゃったけれど、本当は二人とも別のところに行くのを楽しみにしていました
もちろん 今から行きます ε=ε=ε=((((o^ー^)o ブ-ン!!
★パンとエスプレッソと嵐山庭園
[パンとエスプレッソと嵐山庭園]がオープンしました щ(`∀´)ш
フフフ おなかパンパン 美味しかったね~
優雅だったね~
Nさん 誘ってくださってありがとうございます
日記を書くのが遅くなったのは コロナでまだまだ自宅待機と高をくくっていたのに
この後すぐに 会社が再開してしまったからなの
ありがたいことです Nさん また遊んでくださいね (((o(´∀`)o)))