「京の冬の旅」非公開文化財特別公開です
妙心寺では2ヵ所訪れました
妙心寺はとても大きなお寺で 妙心寺の中に46もの塔頭寺院があります
塔頭一つ一つもかなり大きいので 1つの町のようです
玉鳳院はその中の最古の塔頭寺院で
花園法皇の起居する禅宮御殿として建てられました
方丈の屋根は修復中でした
庫裏から入り方丈へ続いています 更に渡り廊下で開山堂につながります
方丈には妙心寺を創建した花園法皇の木像を祀る昭堂や玉座があります
妙心寺発祥の地であり、山内で最も神聖な場所とされている大切な所です
中央奥の昭堂には 花園法皇の法衣姿の木像が安置されています
↑↑↑ 狩野康信の麒麟図 画像は京都観光Naviからお借りしています
↑↑↑ 狩野康信の龍図 画像は京都観光Naviからお借りしています
↑↑↑ 画像は京都観光Naviからお借りしています
花園法皇の玉座がある『拈花室(ねんげしつ)』には御簾が掛けられています
玉座にはやはり繧繝縁が付いています (((o(´∀`)o)))
不思議なことに 驚くことに 現在の玉鳳院にはきまったご住職がいません
妙心寺の塔頭のそれぞれのご住職が毎月交代で玉鳳院を受け持つんですって
(@⌒ο⌒@)b
★鎌倉時代 この地に花園天皇の離宮がありました(仁和寺花園御所)
★南北朝時代 妙心寺が創建される 宗峰妙超は正法山妙心寺と命名しますが すぐに亡くなってしまいます
病と分かった宗峰妙超は後継に慧玄を推挙していました
そして開山となる 関山慧玄が入寺しました
かなりビックリヾ(≧ω≦)ノ 宗峰妙超って大徳寺の開山よね
京都の中で塔頭が多いBIG3 大徳寺 妙心寺 東福寺じゃあないかしら
その二つに関係しているって
宗峰妙超って凄い『なで肩の人』っていうイメージしかなかったのに
凄い立派な人だったのね ヾ(仰゚Д゚)ノスゴッ!!!
関山慧玄の最後もビックリ
1360年 最期は旅に出るといい 旅装束姿で風水泉近くの大樹(松)にもたれた
弟子の授翁宗弼(そうひつ)に不立文字(ふりゅうもんじ)、教外(きょうげ)別伝の「応燈関一流」の禅の由来を諭し
立ったまま亡くなったという ヾ(仰゚Д゚)ノスゴッ!!!
禅の言葉に「坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)」があり
前者は坐禅をしたまま亡くなること
後者の立亡とは立ったまま涅槃に入ることをいう .+(〃ノωノ)゚.+°―!!
↑↑↑ 画像は京都観光Naviからお借りしています
この井戸のあるあたりで 関山慧玄は立ったまま亡くなられました (・:゚д゚:・)
生涯にわたり語録も頂相(肖像)も残すことを許さなかった 84歳
遺骸は艮(北東)隅に葬られ 微笑塔が建てられた
後に微笑庵と称し 開山堂になった
↑↑↑ 画像は京都観光Naviからお借りしています
微笑庵という名前の開山堂です
前の灯籠は 「妙心寺型(玉鳳院型)」石塔
笠は円形・火袋と基礎は四角形・中台と竿と宝珠は六角形の変わった形をしています
★安土・桃山時代 3歳で夭逝した豊臣秀吉の長子・棄丸(鶴松)の葬儀が妙心寺で行われる その廟である祥雲院殿霊屋(おたまや)が建てられた
↑↑↑ 画像は京都観光Naviからお借りしています
この奥に見えているのが祥雲院殿霊屋(おたまや)です
とても綺麗な建物で天井には極彩色の画があり 迦陵頻伽が何人も舞っていました
私たちが訪れたのは2月5日でした
説明のおっちゃんが とてもたくさんお話ししてくださって
立ったまま亡くなった関山慧玄のお話し
妙心寺型灯籠が変わっているからよく見ていくように
今日は鶴丸の命日やから 過去帳を見てくるようにとか ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪
で、過去帳を見に行くと 5日に亡くなっていたのは3名
★後奈良天皇・・・織田信秀が御所の修理のお金を寄進したね とても貧乏で即位してから10年も即位式が出来なかったとか w( ▼o▼ )w
★正親町天皇・・・「麒麟が来る」に出てたね 後奈良天皇の息子です
★祥雲院殿・・・鶴松
わ~ これでようやく後奈良天皇が覚えられました ヾ(´Д`)ノ☆
微笑庵の正面に平唐門があります
室町時代の 応仁・文明の乱(1467-1477)の際の鏃痕があるそうです
ここは外からでも見れるので写真が写せるね ♪d(´▽`)b♪
鏃痕の穴が開いていました
覗くと 微笑庵が見えました 穴から綺麗な写真が写せました (・:゚д゚:・)
お腹が減ったので妙心寺の花園会館で 精進料理を頂きました
今日もTさんと一緒です
美味しかったね~ 楽しかったね~ Tさん いつもありがとーね (((o(´∀`)o)))