空也踊躍念仏は以前もお参りに行ったことがあるのですが
大勢で座っているため 後ろになってしまうと見えにくいんです
何故かというと お坊様が念仏踊りをされるところは石の床の上で
私たちの座っている所よりも身体半分下がっているからです
1時間前に到着したので 今回は一番前に陣取れました
ヤッター o(*^▽^*)o
松原橋を通って行きました
★空也踊躍念仏
平安時代に疫病が大流行し 時の村上天皇は空也上人に病魔退散の勅命を下しました
天皇親政により理想の政治が行われた『天暦の治』として聖代視されています
(@⌒ο⌒@)b
疫病が流行った際に空也上人自身が病魔退散を願って始めたとされるのが念仏踊です
空也上人はお念仏だけでなく火葬や土葬も広めました
腐敗したものを避け清潔に保つことで
結果的に疫病を予防するということを教えたのです ヾ(仰゚Д゚)ノスゴッ!!!
当時は風葬が当たり前の時代だったのに 革新的ですね
空也踊躍念仏(くうやゆやくねんぶつ)は庶民に熱狂的に受け入れられました
念仏踊りが大きな大きな力になってくると
その力を恐れた権力者たちから迫害を受けるようになります ヾ(≧ω≦)ノ
(迫害され始めたのは鎌倉時代の初めころか?)
そこで始まったのが「隠れ念仏」です
見つかっても咎められないように お念仏の言葉も変わりました
「のーぼーおみとー」「もーだなんまいとー」と独特の言葉で唱えます
上半身を上下に揺らし頭も大きく振ります 歩きながら鉦を叩きます
「かくれ念仏」と呼ばれていますが
言葉の通り 権力者に見つからないように本堂の後ろ側で唱え踊り
800年以上前から歴代住職の口伝によって受け継がれてきたのです
800年間と一言で言いますが鎌倉時代からずっと受け継がれてきたって
凄くないですか щ(゚ロ゚щ)
この階段を上がったところが外陣です
200人ほどが座れます
外陣と内陣の境目には蔀戸になっていました 内陣側に開きます
(ご本尊側に開くのは意外でした)
向こうがわの内陣は 石畳なので きっとこの地面とほぼ同じ高さだと思います
だから 前に座らないと お坊様の踊りが見えにくいんです (゚д゚)(。_。)ウン!
内陣にはお厨子が三つ並んでいました
真ん中がご本尊 秘仏の十一面観音で12年毎に御開帳があります
なんとその12年毎というのが来年の年末なのよ o(*^▽^*)o
どんなお顔なんでしょう 会うのが楽しみで仕方ありません♪♪
後の二つのお厨子は どなたがいらっしゃるのかしら ?(゜_。)?
そのお厨子の美しい事
全体に彫刻が施されており 金色もまだまだ沢山残っています
よく見ると 飛天があちらこちらにいらっしゃいます(見えたのは4人)
楽器を持っているようにも見えました
もっと近くで見たいな~
踊躍念仏の間は結構大きな声で一緒に 「もーだなんまいとー」
とお唱えしていました 大きな声だからストレス発散にもなるよ
( ●´艸`)
踊躍念仏が終わると 特別に全員順番に内陣に入らせていただき
ご焼香の後 お札まで頂けました
これで来年も無病息災 元気で暮らせます ヾ(´Д`)ノ☆
お財布のポケットに入るほどの小さなお札です
★六波羅殿
境内の隣に『六波羅殿』と呼ばれる館が建築されました
そして平清盛によって六波羅蜜寺は平家の屋敷群に取り込まれてしまったのです
このあたり一帯に平家一門の屋敷が5,200棟余りも営まれていたなんて
どこからどのあたりまでなんでしょう 想像がつかない大きさです
平家が滅びた後は 源氏によってこのあたりが
朝廷の監視や反幕分子の抑圧などが行なわれていました
★平清盛塚 ★あこや塚
左:平清盛塚
右:あこや塚・・・平景清の妻 阿古屋の塚です
この両方をかこっている石垣は なんとあの坂東玉三郎さんの寄進です
たまたま先日見に行った 南座の顔見世興行の出し物が『景清』でした
あこや塚の説明の通りの劇で 夫の景清を團十郎さんが演じたんです
その時に 年末には六波羅蜜寺に行こうと決めました ♪d(´▽`)b♪
年の瀬も押し迫り 六波羅蜜寺もお正月の準備が整っていました
帰る道すがら 建仁寺を横目で見 ゑびす神社にちょっと寄り
宮川町を通って とんがらし屋さんへ
ずいぶん前に マツコの知らない世界で紹介されたそうです
四条大橋から東華菜館を眺めるのはいつ見ても大好き ♪d(´▽`)b♪
買ってきたのはこれ~ (((o(´∀`)o)))
と言っても私は辛いの苦手なので ほとんど出番はありませんが
主人はたまに使うしね
みなさま いつも日記を読んでくださってありがとうございます
お友達のみなさま いつも仲良くしてくださってありがとうございます
来年も宜しくおねがいします ヾ(´Д`)ノ☆