京都では、8月22日・23日の両日に、
都の入口(旧街道)六ヵ所にあるお地蔵さんを巡拝して、
家内安全、無病息災を祈願する「六地蔵巡り」が行われます。
各寺で授与された六種のお幡(はた)を入り口に吊すと、
厄病退散、福徳招来するといわれており、800年も続いている伝統行事です。
地獄に落ちて苦しむ人々を六道を巡って救済している地蔵菩薩に出会います。
「地獄の苦しみと私のことを人々に伝えてほしい」と地蔵菩薩から告げられた篁は、
その後生き返ります。
そして、1本の桜の木から六道にちなんで6体の地蔵を彫り、
木幡の里(現在の六地蔵付近)に祀りました。
保元年間(1156-1159)に西光法師に命じ、
都を往来する旅人たちの路上安全、庶民の疫病退散、福徳招来を願って、
街道口6カ所にそれぞれ六角堂を建て、六体の地蔵菩薩像を一体ずつ分置したのです。
このようなことから六地蔵巡りの風習がが生まれたといわれています。
(゚д゚)(。_。)ウン!
京都検定のお友達4人で6か所回る予定です ┗|*`0´*|┛スゴイゾ
★浄禅寺 鳥羽地蔵 西国街道
・・・京都から下関 or 九州の太宰府までの経路
寺伝によれば、寿永元年(1182)文覚上人の開基と伝えられ、
境内に、袈裟御前の首塚(恋塚)といわれる五輪石塔があることから
恋塚浄禅寺の名で知られています
本堂には、本尊阿弥陀如来立像を安置し、観音堂には11面観音立像を祀っています
奇麗に白塗りされていて 唇がほのかにオレンジ色
とっても美しいお地蔵さまでした ♪d(´▽`)b♪ 絹のお肌です
瓔珞が素敵ですし 錫杖までアクセサリーのようにピッカピカ~ .+(〃ノωノ)゚.+°―!!
木鼻の獅子がチャーミングでした ご詠歌も書いてあります ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪
●袈裟御前と文覚
文覚は、もとは武士で遠藤盛遠といい、北面の武士として鳥羽上皇に仕えていました
しかし、19歳のときに突然出家。その理由は・・・
文覚は、同僚の源渡の妻袈裟御前に恋をしてしまいました
袈裟御前の「夫を亡きものとしてくれたら・・・」という言葉に、
渡を殺すため夜中屋敷に忍び込みましたが、
覚悟の上、身代わりになっていた袈裟御前を殺してしまったのです
袈裟御前は、わざと夫のいるはずの寝所にいて文覚に殺される決断をしたのです
その後、文覚は真言宗の僧となりました
僧となった文覚は、後白河法皇に対し、神護寺再興の訴えを起こしたことで、
法皇の怒りをかい伊豆に流されました
その時、同じく伊豆に流されていた源頼朝と出会い、挙兵を促したともいわれます。
・・・京から伏見を経て奈良に至ります
六地蔵の名で知られています
当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていため「六地蔵」の名がつきました。
保元年間に平清盛が西光法師に命じ、
都に通じる主要街道の入口に残り五体を分祀したことから、
これらの地蔵を巡拝する六地蔵巡りの風習が生れたました
六地蔵さんで お幡をお返しするようです
お地蔵様のお堂はどこも六角形です
眉が濃いです 胃が膨らんでいます 食べすぎですよ~
頭に綿入れのようなものが3枚も この暑いのに・・・ 何でしょうね ?(゜_。)?
瓔珞などのアクセサリーがついていないので不思議な気持ちになりますが
オリジナルは こうだったのかした?
左側に小野篁さまがいらっしゃいました
小野篁が6体造られたので ここにいらっしゃるのね
こんなお膳もありました
★徳林庵 山科地蔵 東海道
・・・江戸-京都間、江戸-大坂間の人馬と情報の往来幹線
として整備され、伝馬制の制度が敷かれました
衣やらアクセサリーの様子は鳥羽の浄禅寺のお地蔵さまと似ていますね
なんと 天井に 龍が住んでいました ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪ 上田萬秋らしいです
面白いものがありました
このマークは通称「丸通」というそうです
元々江戸時代の飛脚業者が書簡や荷物を運ぶ際に、
中継所での通行証にこのような印鑑を使っていたそうです
飛脚の宰領たちがこれを地蔵堂に奉納したんですって
この可愛らしいお姿は なんと閻魔様の若かりしときなんですって ヾ(〃^∇^)ノ
(σ≧∀≦)σ さんまちゃんが司会するときに持っている棒みたいやわ
お同じ人が彫ったとは思えないよね ちょっと雰囲気が違うような・・・
面長のお地蔵さまで お身体もスラリとされています
1本の木の一番上の細い部分だったのかしら???*°□°*??
この女性的な面差しから 姉子地蔵ともよばれています
ね、お供えのお餅、ここだけ3段組になってます ピンク、黄色、白ですよ
どうして?ってお尋ねしても 昔からこうや~って
色は食紅みたいなのを 白いお餅の上から塗って色を付けてるだけなので
切ったらかまぼこみたいに見えるんですって ( ●´艸`)
上善寺の地蔵菩薩は、俗に「深泥池地蔵」又は、「鞍馬口地蔵」とも呼ばれている。
この地蔵は、当初、小幡の里に祀られていたが、保元年間(1156~59)に、
洛北の御菩薩池(深泥池)の畔に祀られ、さらに当寺に移されたものといわれている。
フフフ 洛北の御菩薩池というのが わが深泥池のことです
町内会の会議をするところが地蔵堂で 今では別のお地蔵さまがいらっしゃいます
(@⌒ο⌒@)b
★源光寺 常盤地蔵 周山街道 乙子(おとご)地蔵
・・・京北町 周山に続く道です
創建は嵯峨天皇第三皇子である左大臣源常(みなもと の ときわ)の山荘を寺に改めたものとされており、これが常盤の地名の由来とされている
常盤は古くより貴人の隠棲の場として用いられ、藤原為業や後深草天皇も一時隠棲したと伝えられる。
特に地蔵堂に安置される地蔵菩薩像は、上善寺にある姉子地蔵に対して
乙子(おとご)地蔵とも呼ばれている
乙子というのは末っ子という意味ですって (゚д゚)(。_。)ウン!
常盤御前の晩年には境内に庵を営みその地で没したという伝承がある。
境内東部には「源氏義経御母堂常盤御前御墓」と記された石塔がある。
本当に美しいお地蔵様です
向かって左には
向かって右には
初めて見た 『 絵心経 』
文字が読めない人のために 絵で般若心経を表しているんですって ヾ(仰゚Д゚)ノスゴッ!!!
屋根の上の梵字も気になりましたが 意味は分かりませんでした
常盤御前のお墓です
浄土宗の寺、地蔵寺といい、京都六地蔵巡(めぐ)りの霊場ですが
地蔵寺だけが お地蔵さまがご本尊になっていますので 六角形の地蔵堂ではなく
本堂にお祀りされていました
この地蔵尊は、一木の最下部をもって刻まれたもので、世に姉井菩薩と呼ばれています
他の五地蔵尊像と比べると大きく造られました。
お身の丈は8尺5寸(約2.6m)もあります。そこで「大きい=お姉さん」
といった意味で「姉井地蔵」と言う別名がついたようです
地蔵堂の東には、石造薬師如来坐像(鎌倉初期)を安置する薬師堂があり、境内には、石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。また、昔、このあたりは、桂の渡しに近く、桂大納言源経信(みなもとのつねのぶ)や、伊勢女(いせじょ)等の歌人の住居があったといわれている。暦応2年(1339)光厳天皇の勅許のより虎関師錬が南禅寺開山無関普門(大明国師)の塔所として建立。慶長7年(1602)細川幽斎が再興した。方丈の襖絵は長谷川等伯の筆で重文。池泉を主にした庭と枯山水と二つの庭園がある。
嵐電に乗ったときにペコちゃんと出会いました
『 西院 』という駅は 嵐電では「さい」と読み 阪急では「さいいん」と読みます
今回 地下鉄 阪急 京阪 近鉄 嵐電と乗りまくって一日で6寺制覇しました
20000歩以上歩いていましたが こんなにすんなり回れたのは
ルートを考えてくださった Mさんのおかげです
また楽しくおしゃべりしながら回れたことも 疲れない要因だったと思います
Mさん Iさん Kさん ありがとうございました
楽しかったね~ ヾ(´Д`)ノ☆ また ご一緒させてくださいね