大好きな政田マリさんのご案内で三十三間堂へ
やっぱり、マリさんなら何を聞いても面白いし
楽しいし、覚えられるわ〜
┗|*`0´*|┛サイコー
三十三間堂は蓮華王院といって、今は妙法院の院外塔頭です
でも、平安時代の当時は
後白河上皇自身の職住兼備の「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」と呼ばれる
院御所内にあったんですって(゚д゚)(。_。)ウン!
後白河上皇のために平清盛が資材を投入して作り上げたものなんです
1001体もの千手観音様達は
なんと庶民を守る神様じゃなかったんです
ただひとえに、後白河法皇をお守りする1001体の観音様だったって
w( ▼o▼ )w なんてこった!!
その証拠に、観音様全員は京の都にそっぽを向いて
法住寺殿を向いているんですよってマリさんが
教えていただいて初めて観音様達の方向を確認すると
その通り ビックリポン!!(゚ロ゚屮)屮
権力を持つと可愛いのは自分だけになりがちなんですね
残念 щ(゚ロ゚щ)
後白河法皇は大河の時に松田翔太君がやってたので好きだったのに…
さて、マリさんから問題が〜
「三十三間堂の柱は何本でしょう? さあ、数えてみましょう!」
普通に考えると間+1で34よね
ともかく実際に数えると えっ??? 柱が36本あるよ
なんでやろ ??*°□°*??
三十三間の周囲四面に人間の領域を一間、廊下部分として作ってあるのです
柱間が33というのは本堂の内陣(神様の領域)だそうです
へ〜、うっかりして、そんなことは知らなかったな〜
( ◎´艸`)
中尊の大きな千手観音様を作ったのは
代表者 湛慶(82歳の時の作品)
1000体もの千手観音様は慶派の仏師たち
でも、それだけじゃあなく、少数の院派、円派の仏師たちも駆り出されているのに
名前があんまり出てこない
その屈辱を晴らすために、かすかな望みを託して
台座の差し込みに名前を記したのは院派、円派の仏師たちですって
よほどのことがあったとしても、そんなところ、取り外しっこないような見えないところに名前を記した…
誰だって作品には自分が作ったと印を入れたいよね
(゚д゚)(。_。)ウン! そんなこと、マリさんじゃなかったら教えてもらえないよね
そうそう、
三十三間堂のご本尊は1001体の千手観音様なのに、その方たちは国の重要文化財
ところが、前に立っている二十八部衆と風神雷神は国宝なんですって
国宝に指定される前は、中尊の後ろに並んでいたのに
国宝になったがために、良く見える前に出てきて
ご本尊達より目立つところに配置換えされたんですって
面白いよね〜
これが昔の並べ方 中尊の周りにぞろりと28部衆たちが居ます
写真はWikipediaより
お正月には通し矢があるんだけど
軒にこんな面白いものが〜
本当かな(・'v`・)??眉唾かな??
見えるかな〜?
ほら
昔の記録が残ってるんですが
和佐大八郎ってひとが丸一日かかって
総矢数13,053のうち命中が8,133
信じられない本数です
京都は色々な歴史が積み重なっているのが魅力の一つ!
後白河法皇が権力を誇示して
自分の法住寺殿の中に三十三間堂を作りました
歴史が移り変わり、秀吉の時代
権力を誇示したいけど、同じものを作るのはお金も暇もかかる
それで考えた必殺技 o(*^▽^*)o
秀吉は自分の建てた方広寺の寺の南限をここにして、
三十三間堂を方広寺の庭に入れてしまったの
。゚(゚^Д^゚)゚。キャハハだよね〜 方広寺は凄く向こうの方なのよ
その証拠に、方広寺の南大門と太閤塀が三十三間堂の塀になってます!!
権力者は都合のいいように自分のものにしちゃうんだ
南大門 内側から
南大門 外側から
この塀が秀吉の作った太閤塀です
つまり、三十三間堂の塀です
このあと、友人と二人で問題の法住寺殿と
血天井で有名な養源院で俵屋宗達の杉戸画を見たり
ランチに行ったりしていたら
最初に計画していた若冲のご両親のお墓がある宝蔵寺が閉まっちゃった
ありゃありゃ…(;Α´∀`)
法住寺
保白河法皇の御陵
淀殿が建ててお江が再建した養源院
ハイアットリージェンシーでランチ
ピタパンは思った以上にお肉が入ってた
パンはオリーブ油に浸して
器が昔っぽいよね
紅茶はポットで3杯入ってました
フフフ 宝蔵寺は時間切れ〜
この松の向こうにあるのが
若冲のご両親と弟のお墓だそうです 残念だけど寄り道のし過ぎ^^;
仕方がないので軽くいっぱい
今日はレッドアイで締めくくりました〜
楽しかったな〜 Sさんいつもありがと〜ね ヾ(´Д`)ノ☆
( ●´艸`)
養源院で聴いたお話
俵屋宗達の描いた杉戸絵の一つに「麒麟」がありましたが
麒麟は 雄が麒で雌が麟なんですって
鳳凰と同じね 知らなかったわ〜 o(*^▽^*)o